ハードボイルド・パン屋伝(後編)

小説

「このパンを、頼む」

 

 その言葉に私は思わず舌打ちをした。原因となった男の名札には『桐生』と書かれている。私は目深に被ったドライバー用のキャップ帽を押上げた。そしてアイラインを強めに引いた目で桐生を真正面から睨みつける。 

 

「わざわざそんなことを言うなんて、私がお客さまを待たせるノロマだとでも思ってるの?」

 

 私は配送ドライバーの仕事に誇りを持っている。今は亡き父の背中に憧れて就いた仕事だ。生まれ持った気性の荒さから運転も同様だと思われがちだが、安全で時間に正確だと評判である。

 

 私はこの仕事に命をかけている。だが、ウマが合わない相手の荷物は運びたくない。この店の配送を担当するのは初めてだが、桐生という男は、私が女だからという理由で見くびっているのかもしれない。だとすればこのまま帰るまでだ。もっと他に運ぶべき荷物がある。

 

 桐生は口を真一文字に結んだままである。すると彼の背後に立っていたスーツの男が私たちの間に割って入った。流れるような動作で渡された名刺には、小麦粉製造会社の営業担当の星野と書かれてあった。

 

「桐生さんはいつもこうなんです。言葉は少ないですが、心を込めてパンの配送をお願いしているんですよ」

 

「……ふうん」

 

「このパンは傑作です。ですが完成までに少々時間がかかりました。しかしお客さまをお待たせするわけにはいかない、絶対に……なので配送経験豊富な北野さんのお力を是非お借りしたいのです」

 

 星野の声には確かな熱意があるように感じた。私はもう一度桐生を見る。

 

「桐生さんだっけ? 私は気に入らない相手の荷物は運びたくないの。で、一度だけ聞いてあげるけど、あなたはどうしてパンを作ってるわけ?」

 

「オーダーメイドパンを通じてお客さまの諦めや我慢を無くしたい、それだけだ」

 

 滑らかな言いかただった。言い淀みなく、しかし重い。

 

 パンが人々の諦めや我慢を無くす。そんなことができるのだろうか。

 

 笑いがこみ上げる。星野が焦ったように口を開いた。

 

「ええとその、つまり桐生さんは──」

 

「気に入った」

 

 それだけ言い、私はパンを受け取った。

 

 そのまま運転席に滑り込む。

 

「必ず届けてあげる」

 

 信号は青。振り返ることなくアクセルを踏み込む。シートベルトはすでに締めてあった。車が私の呼吸に合わせて動き出す。

 

「オーダーメイドのパン……なかなか悪くないわね」

 

 それはただのパンではない。

 

 パンを超えた、ひとつの願いだ。

 

【了】

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